詩誌『葉序』と『作品航跡』 
 −「総目次」および佐賀近辺の諸活動一端 

1977年4月、詩誌『葉序』が発行された。「村倉つゆき」の名前を知ったのはその少しあとぐらいだろうか。そして2004年、12号を持って終刊号を迎える事になったわけだがその事由は『新たな後記』を見ていただくとして、佐賀の文化活動を23年間にわたって記録した「詩誌『葉序』と『作品航跡』―「総目次」および佐賀近辺の諸活動一端」は「― その注釈」にあるとおり西村氏個人が鑑賞または参加した記録であるが膨大な記録をこのままにしておくのは忍びないと常々思っていた。このたびようやく西村氏に了解を取って整理する決心が付き掲載することにしたがこのホームページに抜粋するに当たり次の点を原本と変更した。
本誌はA5判・縦書きであるが、性質上横書きとし、漢数字年号はなるべく洋数字に変更した。ただし本のタイトルなどはそのままで掲載
美術関係は青色文字 音楽関係は緑色文字 舞台・映像は赤色文字とした
目次の「― その注釈」「後 記」「新たな後記」を始めに掲載してこの―「総目次」および佐賀近辺の諸活動一端」を読む手助けになるようにした
他のページの詩・文は割愛した
****などの表現は他国語のため表示できないのでこの様な表現となった
ルビは後の(  )の中に表示した   
 
                    2008.03 山口

     葉序 12号 第一期 終刊号 目 次


 表紙絵シリーズY 山 口 邦 男 ― その注釈
 言告げ 鹿 田 川 見 ・・・ 1 後 記
 「葉序」より、三誌以上の(再掲) (編 集 部) ・・・ 2 新たな後記
 桔梗 ― 終焉に咲く 西 村 信 行 ・・・ 5 ―「総目次」および佐賀近辺の諸活動一端
 形見のしずく (T) ・・・ 11
 波打ち際の二冊―滝口修造と水原紫苑 (編 集 部) ・・・ 13 1977〜1981
 法滅尽を抜け出す町 (記 録 者) ・・・ 14 −−−−− 1982〜1986
 形見のしずく (U)  ・・・ 17 1987〜1990
 詩誌『葉序』と『作品航跡』 1991〜1994
 ―「総目次」および佐賀近辺の諸活動一端
(編 集 部)  ・・・ 19  1995〜1999
 ― その注釈 ・・・ 65
 ほっペたの棘に、うぐいす 西 村 信 行 ・・・ 68 表紙と目次
 後 記 ・・・ 73
 新たな後記 ・・・ 75
    
    −−−−−−−−−西村信行コレクション展2008−−−−−−−−−−

   

詩誌『葉序』と『作品航跡』      ― その注釈
一、  本誌「総目次」の特集は、二年以上前の編集開始(1997年)の時点で、決定していた。当初、薄手の詩誌になってもいいつもりで呼びかけたが、個人誌然となっている編集状態のうえ、すでに社会経済が不況の時代に入っていたため、一冊の詩誌としての成立まで辿り着けなかった。
 そこで延期せざるをえない期間中に、単に「総目次」の列記という通例をふくらませ、本誌なりの特色を出そうと思案した。創刊20余年になり、創作活動としては、いわゆる「晩年」に差しかかったという意識も働いて、骨子は「総目次」に相違ないが、そのあいだあいだに、より積極的な作品参加の表現者の主な『作品航跡』を、年表形式で組み入れることにした。さらに、編集者の手持ちの資料類のなかから広範な分野に行き渡るよう配慮しつつ、実際に見聞きしたいろんな文化活動や市民活動の一端を織り込むことにした。結果的に、すべての項目を確認しながら年月日順に記録したから、本誌前号(1995年)の特集「『新郷土』休刊から二年後の私感」の、いわば「資料編」に成った。ただし必然的に、「総目次」と本誌参加者の作品活動の記録が主軸になつている。それをご了解のうえで参照してほしい。次に、この「資料編」の内訳がより明確に見て取れるよう、記録や構成のだいたいの加筆の順序を報告しておきたい。
 (一)、詩誌「葉序」創刊号の発行日を起点にして、第十一号までの「総目次」を骨子に置いた。一部補正した。
 (二)、より積極的な作品活動を持続した参加者の、個人活動としての主な『作品航跡』を記録した。数例を除いて、すべて編集者が鑑賞または参加した催し物、および所持している資料類から、適時抜粋したため、必ずしも表現者・作家当人の代表的な作品活動を網羅したものではない。一詩誌の参加者たちの、鑑賞あるいは参加できる範囲内の記録であって、以下の項も同様である。
 (三)、より積極的な作品活動を持続した参加者の、グループ活動としての主な『作品航跡』を記録した。絵画・文学・音楽・映像・演劇などの文化活動の面と、講演会・上映会・シンポジウム・市民集会などの市民活動の面の、二つがある。年表形式の記録上、グループ活動に際しての、年表や事務局あるいは会員や実行委員などの参加形態は記載しなかった。
 (四)、以上の三つの項、本誌との接点はないが、広義の芸術文化のあり方に共感の湧き立つ様々な文化活動や、前衛的でアンダー・グラウンド的な催し物、さらに本誌と編集者の性格上、市民グループの立場から支持し記録したい個人やグループの諸活動を抜粋した。当然ながら、この(四)の項以下の記録は、一詩誌の任ではなく、紙幅の都合もあって、多様で継続的な活動の一端を紹介したにすぎない。また、活動上の消息が明白な場合も、ここでは追記や断り書きを加えなかった。
 (五)、編集者の独断のそしりは免れないが、いろんな文化活動に理解があり、創作に力量を発揮された表現者や、若手の作家たちの活動より、適時、記録した。ただ、編集者の鑑賞上あるいは資料の確認上、芸術文化のすべての分野に渡って記録することは出来なかった。実際、取りこぼしもある。
 (六)、通称「ミニコミ誌」の記録は、編集者の定期購読または単独購入の紙誌より、さらに寄贈のそれらより、適時、記録した。参考文献は、より共通性のある分野の書物や、市民活動に際しての参考になる書物を選んだ。なお、特定の政党や政治団体・政治家の発行する機関誌・広報紙・会報などは省いたので、ご了解願いたい。ところどころに世界的・日本的な出来事や、佐賀関係の文化的事項などを挿入したが、極力、「葉序」の内容につながる出来事のみに絞った。
 『作品航跡』の記録・構成にあたっては、まず編集者が手持ちの資料類(原資料)に目を通しながら、前項(三)までの下書き原稿(叩き台)を作成した。それを、画家の服部大次郎さんと山口邦男さん、詩人の吉岡誠二さんと小野多津子さん、映像作家・市民活動家の中原玲子さんに見てもらい、点検と加筆訂正をお願いした。原資料の見つからなかった作品活動は省かざるをえなかったが、以上の手続きを経て、「詩誌『葉序」の会 編集部まとめ」と記載した。ところが集約後、再度の記録のまとめに着手していた段階で、頓挫したのだった。ただ、前項(三)までの「作品航跡」だと、表現者や活動家の登場する頻度や分野に、否応なく片寄りと趣向があらわれるため、それ以降(1998年から1999年にかけて)は、前項(四)〜(六)に当たる原資料を改めて探し直し、大幅な増補を行った。そして発行の目度が立たないまま、記録項目の加除を繰り返した末に、今回の、いわば市民グループの立場から見た「資料編」に達した。この加除の途中、諸々の都合で差し障りがありそうな関係者には、作成する主旨を説明したうえで、掲載の承諾を求めた項目もある。内容の表記は当時(原資料)のままである。なお、例えば絵画展、詩文集、機関誌、冊子、講演会、集会など、表記の区別を記載する際、明記のない場合や不明瞭な場合は、編集者の判断で付記した。
三、 本誌前号の「『新郷土』休刊から二年後の私感」の文中で、「傍から見る限り、『新郷土』の人選のバランスがよく、分野別の配慮もだいたい行き届いていると思っていた。佐賀周辺で多少の足跡を残すぐらいの文化活動をした個人やグループの大半は、誌面に顔を見せていたはずだ」と書いた。一覧すれば、ご察知のとおり、今回の「詩誌『葉序』と『作品航跡』」は、その位置付け上、1970年代から1980年代にかけて作品活動に手を染めた、いわゆる団塊の世代とその次の世代の人達が主軸になっている。だから必然的に、その表現者や活動家と一緒に活動を続けたり、支え合った人達の記録もより多く入って来る。この片寄りを多少なりとも無くすため、増補する過程で、妥当と編集者が思う時点に、参加者や出品者の名前一覧を付した。ここで留意すべきことは、年表形式の記録には、実質的に奔走し、企画・催し物の実現に汗を流した人達の名前が出て来ない点である。実行委員会やグループ (団体)主催の催し物によく有ることで、名前は出て来なくても、一緒に活動した人達の胸のなかに、誰が奔走したかは記憶されているとだけ書いておきたい。(参考)の書物は私の蔵書から選んだが、音成三男さんの写真集『有明海』のみは伽排舎「トネリコ」所蔵の本を参照にした。
四、 繰返しになるが、例えば『磁場展』など数例だけ鑑賞できなかった催し物が含まれるけれども、その他はすべて編集者が企画参加または一般参加したもの、共同出品または鑑賞したものである。なおかつ原資料(ポスター、ちらし、案内はがき、受付資料、機関誌、冊子など)を見出すことの出来たものより、適時、抜粋した。したがって当の作家・活動家や主催者にとって、必ずしも代表的な作品や最高潮に達した時期の文化・市民活動を選んだ訳ではない。本人や主催者にとっては意に添わない、もっと頑張った頃の作品や催し物を選んでほしかったという不満は残ると思う。これも一詩誌の特集ゆえ、ご了解願いたい。むしろ、「文学作品」の紹介を控えた。継続的に鑑賞した催し物であっても、いつの時点かの一つを記録する他なかった。切りがないので、1999年十月初旬で記録を止めた。なお末尾の( )内は、必要最小限に記したため、多少不揃いの印象も残るが、催し物の項目では開催場所(会場)とその所在地であり、市民グループ名や発行物の項目では、構成メンバーが広域に渡ることを承知のうえ、代表者や事務局、編集者や発行所の所在地を記入した。
私は、いわゆる「市民派」であって、既成の政党のどこにも加入していない。だからこそ二十数年間、思う存分詩や批評文、エッセイを書き続けることができたし、今回の『作品航跡』も作成できたと思う。だから詩誌『葉序』に参加された多くの作家・活動家の、文化的あるいは政治的な立場を一に帰することなど出来ようもない。それぞれ共感するところを持ち寄って、『葉序』はつくられてきた。    
                                                               (文責 西村)



                                 後記    2000年版
 書き出しを戸惑うほど、頓挫していた。まる五年振りの発行だ。この空白を埋め合わせするよう、編集に苦慮した。
 前半分の二年余は、本誌十一号を発行した後の休息期間といった気持ちで、長年放って置いた家事などの後片づけをして過ごした。催し物への参加や鑑賞は細々ながら続けていたが、その頃からの不況で、作品発表や遠出を控えざるをえない生活状態に入った。 
 そして編集の呼びかけ以降の、後半分の二年近くの間に、頓挫しながらも『作品航跡』や「形見のしずく」他の原稿を少しつつ揃えていた。ただ、この発表時期を外せない事情があって、私は詩二篇を掲載するだけという当初の予定も外れて、埋め草の「法滅尽を抜けだす町」を編集の最終段階で追加した。 
 結果的に「終刊号」の様相になったが、いつか新たな気持ちで編集したい意思はある。 
 次に、本誌の作品発表者三名、、編集原稿「『葉序』より、三誌以上の」の四名、『作品航跡』の編集点検者五名の内の二名の住所をそれぞれ掲載順に記しておきたい。
  (住所録)
 山口 邦男  〒840-0811  佐賀県佐賀市大財六丁目四の三八
 鹿田 川見  〒070-8006  北海道旭川市神楽六条七丁目六の五
 西村 信行  〒840-0054  佐賀県佐賀市水ケ江二丁目五の三六
 吉岡 誠二  〒842-0001  佐賀県神埼市神埼町三丁目五〇四
 小野多津子  〒849-0921  佐賀県佐賀市高木瀬西五丁目一三の二三(山下様方 模土 靱)
 吉田多美子  〒185-0022  束京都国分寺市東元町四の六の一七
 貫魚堂一水  〒849-0923  佐賀県佐賀市日の出一丁目一六の二七
 服部大次郎  〒840-0055  佐賀県佐賀市材木一丁目二の一七
 中原 玲子  〒840-0027  佐賀県佐賀市本庄町本庄八三九の三
 
本誌十二号独自の編集上、この住所録には九名を列記したが、一度か二度の参加と寄稿で離れられたり、作品の執筆を中断されたりした人達もあってこそ、『葉序』であり続けることができた。なお先の九名の内、次の三名の執筆者を、「総目次」の関連で一致させれば、
 模土 靱は、小野多津子の筆名である。
 村倉つゆきは、西村信行の筆名である。
 使徒塚乙馬、佐渡鷹四、貫魚堂一水は、松尾一水の筆名である。
 いままでなら、ここで参加者の作品発表や近況報告を箇条書きで紹介するところだが、それは『作品航跡』を参照してほしい。
 ふだんから礼儀を失する事の多いのに、年賀状も一月七日に、質素に書く有り様だった。家には旧式の電話が一つあるだけなので、留守電話になる場合も多い。二階の部屋に入りこむと、電話の音は聞こえても、階段を降りる余裕がない。
 ここ二年ほど本誌の下準備や休息を重視して、催し物の鑑賞や集会への参加が極端に減ってしまった。画家が個展や展覧会の前に、アトリエに閉じこもるのと同様、私も閉じこもりの状態だった側面もある。「作品」の生硬さや維拙な点は別にして、まだ詩や雑感を書くことが出来たという結果の方が、嬉しい。
 書物紹介をかねた 「二篇のことば」 シリーズの、「波打ち際の二冊」で、滝口修造と水原紫苑をとりあげたのは、紫苑さんの第一エッセイ集『星の肉体』を手中にしたのが、切掛けだ。深夜叢書版だったから、両者の結びがすぐわかった。『星の肉体』の装画には、滝口修造のデカルコマニー作品の数点が選ばれているのだ。
 久しぶりに新装版『余白に書く』も本棚から取り出した。そして両者の散文(詩句)と短歌を添えて、フィルム作品撮影の延長線上で撮った八点の写真で、「形見のしずく」の構成作品を思い立った。                          (2000年1月 西村信行)



                                新たな後記
 本誌の後記は、ご覧のとおり2000年1月に記したものだ。その年の夏に発行する予定で原稿をすべて揃えていた。ところが原稿を印刷所(光版社)に出していたのに、当時印刷費が足りない、作品に書き過ぎなどの理由が重なって、発行が挫折した。
 全原稿を引き取り、発行できる時期を待つことにした。挫折は重なるもので、私の心身が発病し、背骨の圧迫骨折で初めて救急車に運ばれる羽目になった。だれにでも一生に一度か二度は死に目にあうという危機に落ち入った。
 最初の後記に付け加えることはそう多くはない。「日本舞踊」が記入してあるのは、当時、藤間勘智賀さんより公演の招待券をいただいたから、年表に加えた。
 発行が遅くなったついでに『作品航跡』が大幅にふえた。中身も終刊号にふさわしくなったのでこの際、第一期の終刊号にしようと思った。表紙絵も服部さんと山口さんのそれが六点づつになったので、ちょうどよいと考え、また、いつ「葉序U(セカンド)」が出せるか予想もできないので、終刊号にすることにした。
 私の独断で作ってきた感はある。今回本誌の印刷事情に関して、詩友吉岡誠二さんに連絡して、格別のアドバイスをいただき「宮木プリント」に交渉までしてもらった。印刷代の目度も立ったので、この期を逃さないよう発行することにした。いままで原稿を寄せていただいた詩人、画家の皆さまに感謝して、お礼を述べたい。ありがとうございました。                         (2004年6月) (西村)


inserted by FC2 system